やまがた未来プロジェクト2021

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2021.05.20

Next generationvol.7

#07 河合寿子 山形大学理学部助教

人生を懸けたいもの 見つけてほしい!

少女の頃抱いた植物への好奇心を、進学、結婚、出産などのライフイベントを経てもそのまま持ち続け、研究に情熱を傾ける女性がいます。山形大学理学部の河合寿子さん(旧姓・久保田)。研究者としての原点と継続の原動力とは? 研究の先にたどり着きたいゴールとは?これからのリケジョのためにも、ロールモデルの一人になれればと走る河合さんに、お聞きしました。

母の背中、父との遊び

 研究者の道に進んだきっかけは?

 両親の影響が大きいです。幼い頃から医師の母にくっついて、職場をちょろちょろしていました。淡々とマウスの腫瘍を測る母の姿、たくさんのピペットが入ったバケツなどをよく覚えています。母の留学先のフランスを訪ねたこともありますが、とにかく母はいつも生き生きしていました。

 育児をしながら医師として働き、講義もしながら研究を続けるのは、途方もなく大変だったろうと今は想像できます。でも当時、大変そうに見えたことは一度もありませんでした。それどころか「研究は楽しい!」といつも目を輝かせているので、研究は楽しいものだと見事すり込まれていきました。

 私は光合成の研究をしているのですが、植物に興味を持ったきっかけは、小学2年の夏休みの自由研究です。植物採集をしようと父が本気を出し、一緒にあちこち走り回り、汗だくになって土を掘り返しました。じわじわと暑い日でした。疲れて車で寝てしまった私を、父は家までおんぶしてくれました。高学年になると、夜の山で一緒に星を撮影しました。実は宇宙の研究もしたかったんだ。父の昔話を聞いたのもその時。「知らないことを知るのは楽しい」と感じるのは、私にとって自然なことでした。

 今、研究や育児で壁にぶつかった時、両親のことを思います。ロールモデルは、コツコツタイプの母。母が踏ん張って何とかなってきたから、自分も頑張れると勇気が湧くんです。

自身の〝原点〟ともいえるグレープフルーツの木。子どもの頃、種をまいて出た芽をここまで大きく育てました

全てが変わった

 結婚、出産を経て変わったことはありますか?

 研究の楽しさ、そしてつらさは変わりません。結婚で変わったことも特にありません。でも、出産・育児で私の生き方のほぼ全てが変わりました。以前は時間の全てを実験に費やすことができましたが、子どもがいるとそうはいきません。育児や家事は完璧を目指さないことにして、夫と協力しながら何とか日々を乗り切っています。

 さらに大きな変化は、未来に責任を感じるようになったことです。私が死んでいなくなった後も、どうか世界中の子どもたちが幸せに生きていってほしい。そのために何ができるか、真剣に考えるようになりました。

研究室に貼られた長女作の絵には家族の顔と「だいすき」の文字

ほんの一瞬

 これからの目標、夢は?

 植物の光合成の仕組みは、実はまだまだ分からないことだらけ。この薄い葉っぱの中で何が起こっているのか。想像するとワクワクしてきます。まだ誰も知らない、生物が生きる仕組みを明らかにすることが目標です。私の研究は基礎研究ですが、応用へつながり、持続可能な未来の実現に何らかの形で貢献できることを願っています。

山形大学では中学時代の同級生が研究をサポートしています

 山形の後輩へメッセージを

 大人になってから、父と見た星空を思い出します。星の光は、何十万年かけて地球へ届きます。そういう宇宙の時間や、地球の歴史を思えば、人間の一生なんてあっという間。地球がまばたきしているほんの一瞬の間に生まれてきて、そして生態系へ戻っていく存在です。

 限られた時間の中、大切なのは〝自分〞が笑顔で人生を過ごすこと。〝他人〞と比較して心を悩ませたり、人をねたむことに人生の時間を使うのはもったいない!のです。

 人は生きている時間の多くを仕事に費やします。だからこそ、人生を懸けて取り組みたいと思えるものを見つけてほしいです。それは正解がないし、人生のステージで変化することもあるでしょう。だからたまに、自問自答してみてください。「それは命を費やして取り組むことなの?」と。

 私にとって、研究は人生そのもの。自分が生きた証しとして、これからも夢中で取り組んでいきます。

撮影/伊藤美香子

河合寿子 KAWAI HISAKO
山形大学理学部助教

PROFILE
生物学の研究者。主に植物の光合成メカニズム解明に取り組む。1980年、両親とも医師の家庭に長女として生まれる。山形西高校-甲南大学生物学科卒。研究を続けられる環境を求め同大学院、東京大学大学院、大阪大学、基礎生物学研究所(愛知県)でキャリアを重ね2018年10月、山形大学に着任。プライベートでは12年、同じく研究者の夫と結婚し14年に女児、19年に男児を出産。山形大学では女子中高生の理系選択を支援する活動にも携わっている。

河合寿子さんのインタビュー より詳しいテキストはこちら

キミヘ本紙では、紙幅の都合上ダイジェストでの掲載となりましたが、インタビューの詳細を紹介します。子ども時代のエピソードや河合さんの思いについて、より詳しく書かれていますので、どうぞご覧ください。

なぜ研究者の道へ?


研究者への扉


 重厚な表紙の本が天井まで並んでいる。薄暗い本棚の迷路みたいな部屋を、母の後ろをついてまわっていると、別世界にいるような気がした。母は、目的の本を積み上げ、コピー機の前で忙しそうにページをめくる。「お母さんは、”しょうどっかい”の準備をしている(後に、抄読会だと知った)」というのが、私が覚えている一番昔の研究者の記憶である。夜中の実験について行ったこともあった。真っ暗な廊下が怖かった。淡々とヌードマウスの腫瘍の大きさを測る母。ガラスのピペットがたくさん入ったバケツを覚えている。だんだん「お母さんは人の癌を治すために研究しているんだ」と認識するようになった。
 小学生の私にとって、実験といえば、教科書に載っているような「結果が分かっている」ものだった。ところがある日、母が取り組んでいる実験は、世界中でまだ誰もやったことがなくて、そこで得られた結果は、母しか知らない、世界中で母だけが知っているんだ、ということを母に教えてもらって知った。あまりにびっくりして「早く! 早く発表しないと!」といった記憶がある。母の成果が世界で一番初めに世に出るという驚きと喜びと誇りと、誰かに発見されてしまうかもしれないから急いで! という気持ちが混ざり合って、世界がキラキラして見えた瞬間だった(今考えると、これはそのまま私の状況となっている)。
 私が高校生、大学生になると母の留学先(フランス)を訪れて、母とボスがディスカッションしている隣に座って実験の話を一緒に聞いたり、母の国際学会発表を見に行ったりした。母はいつも生き生きしていた。


母の背中、父との遊び


 当時、育児をしながら医師として働き、講義も教育もしながら自身の研究を続けるのは、途方もなく大変なことだったろうと今なら想像できる。しかし、当時、大変そうに見えたことは一度もなかった。それどころか、日々「研究は楽しい!」「何の研究をしていても楽しいと思う」「子供たちの手が離れたら、また大学に入って考古学研究をしたい」など言っていたので、完全に「研究は楽しいものだ」と見事にすり込まれていった。ちなみに私は光合成の研究をしているが、植物に興味を持ったきっかけは、小学2年生の夏休み自由研究で植物標本を作ったことだった。夏休みになると特に父が本気を出して一緒に自由研究をしてくれた。夏の間中、あちこちをまわり、さまざまな植物を根っこから引っこ抜いてきては標本を作り、図鑑を見ながら同定した。山寺のあの坂を上りながら父がふと触った植物に棘があり「いたっ」と叫んだ。じわじわと暑い日だった。車で家に着いた頃、疲れて寝たふりをしたら父がおんぶして家の中に運んでくれた。
 小学校高学年になると星の写真を撮りに夜の山へ連れて行ってくれた。そこでは、父が中学・高校時代、屋上で星の写真を撮った思い出話や、宇宙の研究をしたいと思ったこともあるという話を聞いた。私が「知らないことを知るのは楽しい」と感じるのは自然なことだった。その心は今もそのまま。「知ることは、見える世界が変わること」。知ることは楽しい。自分が解き明かすことはもっと楽しい。


ロールモデルは母


 私は、研究や育児で壁にぶつかった時、両親のことを思い浮かべている。父は優秀タイプなので、コツコツタイプの母の方がロールモデルとなることが多い。母が踏ん張って何とかなってきたから、自分も頑張れると勇気が湧く。


結婚・出産・育児というライフイベントを経て変わったこと、 変わらないこと
 

変わらないこと: 研究の楽しさ、辛さ。


 結婚後かわったこと…入籍後もアメリカと日本という遠距離だったので、日常生活、スタイルで特に大きく変わったことはない。相変わらず、朝から晩まで研究に明け暮れていた(9ー10時にラボ到着、22ー2時くらいに帰宅)


出産・育児を経て変わったこと:生き方のほとんど全て変わった。

 挙げていたらきりがないほど。何か一つ挙げるとすれば「自分がいなくなった後の未来が平和でいい世界であってほしい、そのために何か貢献したい」という気持ちが生まれてきたこと。
 産前は、自分の人生が中心だった。自分が死んだ後のことはあまり考えていなかった。持続可能な社会が実現され、自然破壊もなく平和な未来が続けばいいな、くらいに思っていた。しかし、自分が死んだ後も、何が何でも幸せに生きて欲しいと願える子供たちが産まれてきた。過去の自分ではない、自分が生まれ変わったように思える。これが最も大きな変化だと思っている。
 産前は、道端で子供を見かけても「小さい人間」くらいの意識しかなかった。赤ん坊なんていうのは、どう扱っていいか分からない難しい存在だと思っていた。しかし、実際出産してみて自分の子供と触れ合ううち、自分の子供のみではなく、保育園の友達も習い事の友達も、道行く子供たちも、みんな尊い宝物に見えてきた。私がこの世にいなくなってからの未来を生きるこの子たち。その明るい未来のため、何かしてあげたいと思うようになった。


これからの目標、夢


 植物の光合成の仕組みは学校の教科書にも載っており、もう分からないことなんてないんじゃないかと思うかも知れない。でもこの薄っぺらい葉っぱの中では無数の化学反応が進行しており、まだ分からないことだらけ。そして、私たち人間の身体の中のことも。自分自身のこの身体の仕組みさえ分かっていないことだらけ。この中で今まさに起こっている反応で、まだ誰も知らない物があると思ったらわくわくしませんか? まだ誰も知らない、生物が生きる仕組みを明らかにしていきたい。これが目標です。


山形の後輩へメッセージ


 小学生の頃、よく父と蔵王に星の写真を撮りに行った。木々に囲まれて真っ暗な山の中をぐねぐねと車で進む。外に出ると少し肌寒い、昼間の暑さはどこいった。父が三脚を立ててカメラをセットし、シャッターを開ける。露光時間が長い、特別な写真を撮っているうれしさ。時間を切り取っている感じがした。林の中に光る目を発見したときは二人で慌てて車に戻った。安全地帯に入ったら父が「二つの目の距離から考えるとあれは…」とか真面目に考え始めたのが面白かった。後日現像した写真と父からもらった天文の本を照らし合わせ、夏休みの涼しい部屋で星の同定をする。夜に父が帰ってくると、私の同定が正しいか一緒に確認してくれた。ついでにいろんな星の話も。遙か昔にこの星を出発した光が何万年、何十万年の時間をかけてここまでやってきて、フィルムに検出される。そんなことを、おとぎ話を聞くような心地で聞いていた。


瞬間的な存在


 今この年齢になって、夏休みの涼しい部屋と星の写真を思い出し、宇宙の時間の流れに思いを馳せることが増えた。そして、自分の立っている地球に目を向ける。生物が誕生した約38億年前、5 億4000万年前のカンブリア紀の生命大爆発… そして自分の存在。(地学の先生と話をしていると「最近1億年の放散虫は…」などと発言なさる。1億年が「最近」…? 地球の歴史、宇宙の歴史から考えると最近なのですよね。─猛毒の酸素が出てきたぞ!、でも呼吸というシステムを獲得した!と思ったら、あと10億年したら酸素に富む環境も変わるかもしれない!─こうやって刻一刻と変化する環境に適応するには、DNAの変異、淘汰を繰り返す必要がある。進化という巧妙な仕組みを使い、形を変え生き方を変え、環境に適応して何億年間も命を繋いできた生物。1固体では寿命が限られてしまうが、「生命」としては繋がっていく。1個体としての存在は刹那的でも、「生命」としては地球と長い付き合いなのだなぁ。)
 そんなふうに思うと、私の存在は、地球が瞬きした瞬間的な存在なのだと実感する。ほんの一瞬、地球が瞬きする間に、産まれて、生きて、生態系に返っていく。そんな刹那的な存在。
 そんな時間のスケールは想像しにくいかもしれないが、1固体としての時間は本当に限られている。そのことを意識して欲しい。
 仕事は、生きている時間のほとんどを費やすもの。 生きている時間=いのち。毎日いのちを費やして取り組むこと。人生を懸けて取り組みたいと思えるものを見つけて欲しい。それは正解がないし、人生のステージで変化することもあるだろう。だから、たまに立ち止まって、自問自答してほしい。


問い続ける


 やりたいことを見つけるには、知識や経験が必須だ。インプットがなければアウトプットもない。世界を知り、自分を知る。ただ、世界は変わる。伸びる、繋がる、広がる。だから問い続けなければならない。よく学び、よく遊び、よく生きて。人を妬んだりして時間(=いのち)を浪費するのはばからしい。
 「人生を懸けてやりたいこと」を見つけることができるなら、それは本当に幸せだろう。 私にとって、研究は人生そのもの。生きた証でもある。


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